昭和44年2月13日 夜の御理解



 楽(がく)のほうの、琴のほうの御用を頂く者のことをお願いしておって、御夢を頂いたとかと言って、泰子と今、愛子に、いうなら琴の伝授をやっておるわけですけれども。だんだん愛子も泰子も楽のほうが好きではないのですけれども。好きであるということは、かえってあの、信心の上からいうと、結局は好きなものになって、信心でするということは欠けるから、かえってそれでは、あの、嫌いな者が「御用だから」というので、熱心に覚えてしたほうが、ほんとの御用が出来るだろうというふうに御理解いただきましたから、今、二人熱心にやってるわけですけれども。
 ほんとにあの、だんだんこう少しづつ覚えていきよります。何の稽古でも同じことで、信心も私は、あの、もう見慣れ聞き慣れで出来るはずはないと思うんですね。これは、もう毎日毎日十年参って来ておっても、ただあの、本気で稽古をしようとしなかったら、いつまで経っても信心はよう覚え足りないものなんです。ただ、拝みにくる所、お願いにくる所ぐらいではね。いつまで経っても稽古にならん。
 伝授しようとする者、それを頂こうとする者が、ほんとにある意味では火花を散らすような、あの、気持ちでですね、本気でその、信心を稽古しようという気ができたら。例えば、ここでいうなら、私の信心は、本気で皆が頂こうという気になったら、その気になったらどんどん信心は進むと思うけれども、どうもあの、なら琴の稽古をしとりますが、琴の稽古をするようなふうな、ほんに焦点が置かれないところに信心の難しさがあると思うんですね。
 けれども、ほんとにひとつ教えようとする者、伝授しておこうと思う者、でも私の信心のここだけは頂いておいてもらいたいとこう、願うところがあるわけですけれども。そこをほんとに頂こうとこう、稽古をする気にならなければ、いつまで経ってもほんとの稽古は出来ない。ね。
 ただ、拝む道を覚えたり、お参りをしておる、それが十年・二十年続いておるというても、それは稽古にはなりません。本気であの、稽古をさしてもらおうという気にならにゃいけんなということを、例えばほら、ね、事だけのことじゃありませんけれども、習おうとする者、教えようとする者の気持ちがあって、それを頂いていかにゃなりません。
 信心はどうも何か、見習い聞き習いのような感じがするんですね、皆さん信心は。何とはなし、だから聞きかじりで、まあ先生が言わっしゃるような事を言うようになったり、まあおかげを受けるわけですけれども。見慣れ聞き慣れなと、ほんとに手をとって手ほどきを頂くというような気持ちで、全ての事柄の中から信心を本気で頂こうとする姿勢というかね、そういうものなんです。とても信心には、気楽になってくるように思う。
 本気でひとつ、信心の稽古をしなければいけないと。そして、下さろうとする者、また、頂きたいと思う者が、そこに合い寄って、えーその、頂けんはずはないのですから、ね。ですから、信心の稽古も同じこと。ね。ここだけは、私の信心のここだけは、ね、ひとつ皆んなに残しておきたい。皆んなに覚えてもらいたいと思う。そこだけは皆がその気になって、受けさして頂こうという気にならなければ、私はでけない、いつまでも信心は上達しないと思うですね。  どうぞ。
    
                入力者  末永 清和